学生時代から社会人にかけて、自分の好む相手はみな親に反対され、いつしか私は一生独身だと思い始めました。
その頃いつでもやめられるという軽い気持ちでつきあい始めた彼に結婚を強く望まれ、あきらめたはずの「結婚」という夢を捨て切れていなかった私は、親の反対を押し切り、キャリアも捨てて彼の元に走りました。
少し気になる現象に気づかなかったわけではありません。けれど、自分が変えてみせると思っていたところがありました。
一緒に暮らし始めてわかったことは、夫に浪費癖があったこと。かなりの収入があるにもかかわらず、カード返済の自転車操業、新居にあったものは使い古した壊れかけた家具ばかり、私が唯一の身内からの祝福として妹にもらった祝儀も、彼の返済に使われてしまいました。私が初めて妊娠し嘔吐を続けているのにアルバイトを強要し、私の冬用コートがなくても買うのを渋るくせに、自分の服を次々と買ってきては気に入らないとただ同然でフリマにもっていく。ほかに彼には罪悪感の伴わない浮気癖もあったのです。私と子供が高熱で倒れていても、うちに帰ってくるのは寝るためだけで、友だちを呼んで世話をしてもらえばと言う有様でした。
私自身にいたらない部分がなかったというつもりはありません。ただ、彼のあまりに自己中心な生き方に、私の愛情はみるみる内にすり減り、相手に少しでも気を許したら負けてしまうと常に警戒するようになったのです。当然のこと、私は二人でいる空間が苦痛になり、会話は前もってガードを固めているために居丈高になり・・・、夢で夫に泣き叫びながら抗議していてハッと目覚めることを繰り返しました。
クリスチャンの友人を通して、神様の存在について考え始めたのはその頃です。全てをつかさどる何か大いなる方がおられると感じていました。しかし、こんなに人に怒りをもっているような人間にはふさわしくない、人を許しなさい、なんて自分にはできないから縁がない。。
ところが、そんな私の前に次々と、神様の計らいでしかありえない、というようなことが起こったのです。それは例えば、自分に強く反対する人の心をいきなり180度変えるというようなことで、こうなると「神」の存在を認めないわけには行かなくなりました。
また、幼い我が子が「クリスマスはイエス様の誕生日なんでしょ」というのを聞くにつけ、私はどうでも、子供は神様に返さないと、と思い始めたのです。
それでも抗っていた私は、旧約聖書の神の厳しさを書いた箇所を取り上げ、神様に愛なんかない、と一人のクリスチャンに言い放ちました。
するといつも笑顔を絶やさない彼女が、厳しい口調で「だからイエス様が十字架で死んでくださったのよ」と言ったのです。
もう降参だ、と思いました。夫を許すことができないまま、それから数週間後に信仰告白をし、数ヵ月後に洗礼を受けました。
人を許すことは簡単ではありません。その感情を忘れたように振る舞い、相手に謝ることもできるのです。けれど、本当の心の解放に至らなければ、窮屈さに変わりありません。
自分の力ではできないこと、全てを神にゆだねること、その死と復活をもって私たちを本当の自由へと解き放ってくださる、イエス・キリストに感謝します。